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論文

ソウル声明 紹介文を読む

Michael Oh, David Bennett, & Ivor Poobalan

序文

韓国インチョンで開催された第4回ローザンヌ世界宣教会議は、世界宣教に献身する、卓越した運動が誕生してから50周年を記念する。1974年の第1回ローザンヌ世界伝道会議は、150余りの諸国から2,700名の教会リーダーを一堂に集め、全教会が全世界に福音のすべてを届けなければならないという、参加者が共有する確信を確認した。

第1回会議以降、世界の教会は史上どんな時代にもまさって、世界宣教を加速させるために共働し、その結果、教会は前例を見ないほどの成長を遂げ、それまで未伝であった地域で何千万もの人々が福音を受け入れ、その変革の力を経験した。

罪の中に失われていた人々に救いをもたらすために、イエス・キリストの良い知らせを告げ知らせるという使徒的最優先事項に対して、教会が献身することにより、神が成し遂げてくださった業について、私たちは喜び祝う。しかし、今も何十億もの人々が神の愛とキリストの恵みのメッセージが届かないところにいる中、宣教の務めは依然として急務である。さらに、この大いなる成長のただ中で、世界各地の教会は、何千万人もの第一世代クリスチャンの信仰形成と弟子育成の効果的実施に苦闘してきた。

主イエスは、マタイによる福音書28:18-20における弟子たちへの命令において、教会に与えられる指令には二つの重要な優先事項が含まれることを明示した。すなわち、「あらゆる国の人々を弟子としなさい」という指令には、「父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け(る)」という伝道の務めと、「[キリスト]があなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教え(る)」という牧会の務めが含まれる。

この優先事項は両方とも、使徒パウロの宣教戦略において明白である。それは使徒の働きと、パウロの多くの書簡に記されているとおりだ。パウロは救いのメッセージを失われた人々に届けることに情熱を傾け、信者の信仰を強めることにも同じように情熱をもって臨んだ。それは、信者が福音にふさわしい生活を送り、福音の真理をそこなう恐れのある偽りの教えに対抗できるようにするためだった。パウロはそのことをこのように要約している。「私たちはこのキリストを宣べ伝え、あらゆる知恵をもって、すべての人を諭し、すべての人を教えています。すべての人を、キリストにあって成熟した者として立たせるためです。」(コロサイ1:28)。

過去50年間の伝道の収穫の業において、世界教会は、新たな信者が真に聖書的な世界観を培うのを支援するために必要な教えを、十分に提供してこなかったことを私たちは悔いる。家庭、学校、教会、地域、そして職場において、徹底的に弟子として生きよというキリストの召しに、新たな信者が従うよう育てることを、教会はしばしば怠ってきた。教会はまた、最新の社会的価値観やゆがんだ福音に応答できるよう、リーダーを整えることにも苦闘してきた。それらはクリスチャンの真摯(しんし)な信仰を弱め、主イエスの教会の一致と交わりを破壊しかねない脅威となっている。その結果、私たちは偽りの教えや似非キリスト教的ライフスタイルの台頭におののき、多くの信者が福音の本質的価値から離れ去るという事態を招いている。

この50年、ローザンヌ運動は「ローザンヌ誓約」(1974)、「マニラ宣言」(1989)、「ケープタウン決意表明」(2010)に導かれてきた。第4回ローザンヌ会議の「ソウル宣言」は、これらの過去の会議の文書を全面的に肯定し、福音の中心性(セクションI)と聖書を忠実に読むこと(セクションII)への私たちの献身を新たにすることによって、それらの過去の文書の堅固な土台の上にさらに建て上げる。こうすることによって初めて、私たちは世界教会が今日直面する具体的課題(セクションIII-VII)に対応することができる。その間にも、私たちは十字架につけられ、復活した私たちの主について、あらゆる場所からあらゆる場所へと、来るべき世代のために忠実な証しを立てようと努めるのだ。

教会はともにキリストを伝え示そう!

I. 福音:私たちが生き、また語るストーリー

イエスはその働きの始めにおいて、こう言われた。「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)。使徒パウロはこう記した。「私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です」(ローマ1:16)。この福音は公式でもなければ、ひとそろいの宗教的思想でもなく、むしろ人生を変革する良い知らせと力とを告知するストーリーである。使徒の働きの中で、使徒たちは多様な聴衆に対して福音を説き、彼らがストーリーを語るのを私たちは耳にする。こういうわけで、使徒たちも、その後の世々にわたる無数のクリスチャンも、私たちが生き、語るストーリーとして福音を受け入れてきたのである。

「(旧新約聖書に書かれた)このストーリーこそ、私たちが何者であるか、何のためにここにいるのか、どこへ向かっているのかを私たちに教えてくれるのである。神の宣教に関するこのストーリーは、私たちが誰であるかを定義し、私たちの宣教を推進し、結末は神の手の中にあることを私たちに確信させる。」(「ケープタウン決意表明」2010

  1. はじめに、神は霊的実在と物質的実在とが驚くべきかたちで相互依存するものとして、宇宙を創造された。そこには意図と不可思議さが満ちている。神が造られたすべてのものは、秩序立っており、美しく、良い。神は造られたすべてのものを祝福し、それぞれの部分が全体の繁栄のために存在するようにされた。各領域、すなわち地と空と海のために、神は生き物を造り、命の息と生殖能力を与えた。創造のクライマックスとして、神は人を造り、男と女とを神のかたちに造り、人が神と、また人間どうしが関係を結ぶことができるようにし、神の世界を管理するための権威を人に与えた。
  2. 神が造られた人という生き物の仕事と遊び、人の結婚と子育て、その芸術と産業、その集団生活のパターンは、すべてのものの利益になり、また神の栄光となるはずのものだった。人が受け取った祝福は、人間どうしの間で共有される祝福となり、礼拝として神に返される祝福となるはずのものだった。

神はみことばにより、神の霊によってこの偉大な創造の業を成し遂げた。

  1. 神が人間を祝福した時、もし人が神から離れようとするならば、生命の継続的な流れは断たれると神は彼らに警告した。神お一人のみが命なのだから、神から離れるという選択は死を意味する
  2. アダムとその妻エバとが、サタンにそそのかされて反逆に加わったため、罪と死が世に入ってきた。神への礼拝において一つとされ、多様な文化を持つ民族で地を満たすようにと委託されたが、人類は暴力で地を満たし、人類が造られた目的である一致を粉砕した。神の聖なるご臨在の前から追放され、命から断絶された人類は、自分の意志の奴隷となり、むなしい存在という地位にとらわれた。
  3. しかし、神は憐れみと愛に満ち、罪ある人間という生き物を、自らの選択による奴隷状態のまま見捨ててはおかれなかった。同時に、義なる神として、反逆を罰しないままにしておくこともできなかった。神は来たるべき救い主によって、人類をその救いのない状態から救済するため、そして礼拝において一つとされる、あらゆる民族から成る聖なる一つの民として人類を回復するためのご計画を始動させた。

神はみことばにより、神の霊によってご自分の被造物を造り変える。

  1. 地上のすべての国を祝福するため、神はアブラハムと契約を交わし、ご自身の生命を吹き込むご臨在の祝福を、一つの民に対して回復することを約束された。その民のうちに、神はもう一度、互いに祝福し合う関係においてすべての民族を一つにする。この民は神の住まいとなり、神の新創造のための新たな人類となる。
  2. 序章として、神はアブラハムの子孫を選んだ。これは12部族から成る民であり、ヤコブの12人の息子にちなんで名づけられた。聖なる民となるよう組織されたこの民は、ファラオの下に奴隷とされ、抑圧された。しかし、神はご自分の契約を忘れることはなかった。神はその民を奴隷状態から解放し、すべての民に対してご自分の卓越性を宣言した。神はその民をシナイ山につれて行き、力ある言葉を語り、その言葉を心に留める者には命を与え、ひたすらな心で神を愛し、神の命に満ちた心で互いに愛し合う民を形成するための力を与えた。
  3. しかし、神の民は神に反逆した。彼らは命よりも死を選んだ。もし神が恵みに満ちた方としてご自身を現されなかったら、民は滅びたであろう。神はその憐れみにより、王政を打ち立て、イスラエル民族が神の支配によって生きるようにされた。神は預言者を送り、シナイ山で語られたみことばを解釈させ、民が神から迷い出た時には彼らを正すようにされた。神は知恵ある者や賛美歌作者を送り、生き方においてイスラエルを養われた。それでも神の民は反逆した。彼らの王や祭司たちは神に背を向け、民は預言者を拒絶した。そこで、神は民をその土地から追放し、この民族を捕囚に追いやった。
  4. しかし、神はその契約を忘れることはなかった。預言者たちが民の滅亡を警告した時でも、神は民を新たな命に回復されると預言していた。それは、イスラエルが捕囚から帰還した時、神がなさったとおりである。しかし、この民の衰亡と回復は、反抗的な人類に対する神の取り扱い、すなわち神の正統な支配の回復において、後に起こる劇的上昇の前味に過ぎなかった。

神がみことばにより、神の霊によって被造物を刷新するための時はまだ来ていなかった。

  1. やがてその時が来た。神は預言者ヨハネを送り、ご自身が任命した王がまもなく到来するための準備をさせ、人々が神の支配の下に生きるために罪から立ち返るよう呼びかけさせた。ヨハネは罪から立ち返った人々にバプテスマを授けたが、やがて来るべきバプテスマについても語った。「私の後に来られる方は、聖霊と火であなたがたにバプテスマを授けられます」。主イエス・キリストによる、その聖霊のバプテスマは、諸民族から成る約束の民を形づくる。ヨハネが言ったとおり、後に来られる方は来たが、全く予想外のかたちで来られた。

神の霊によって、永遠のみことばである神の御子は、神の新しい被造物の始めとして、処女マリアの胎のうちに人となった。

  1. 預言者によってあらかじめ告知された、神の復元された支配は、ヨハネがイエスにバプテスマを授けた時に始まった。イエスが水から上がった時、天からの声がこう告げた。「これはわたしの愛する子」。イスラエルの民と同じように、イエスは荒野で試みにあったが、彼は誠実であることを証明し、シナイでイスラエルに語られたみことばに心から従うようにと、彼に従う人々に説いた。イエスは病人をいやし、汚れた人をきよくした。彼は死人を生き返らせ、滅び行く人を救済し、悪霊を追い出した。このすべてのことにおいて、イエスは人々に祝福を回復するための力を示した。その人々は罪からきよめられ、死から救い出され、サタンの支配から解放された民であった。イエスは、貧しく心の砕かれた人々に神の祝福を再び新たにするための時が来たと告げ知らせた。イエスが告知した祝福は、富や健康ではなく、新創造の変革する力としての神ご自身の命だった。救い主イエスが彼の教会を建てる時は来た。しかし、これにはイエスの自発的な犠牲的死が必要だった。この理由は、人類と神との間に立ちはだかる罪のとげが、すべての人に死をもたらしたからである。
  2. イエスがポンテオ・ピラトの下に十字架に付けられた時、私たちを代表する身代わりとして、つまり神が世に送られた、新しい被造物のアダムとして死なれたのである。キリストにおいて、神は私たちの罪の罰をご自身の身に負われた。自らの内に命を持つお方が、世が命を得るためにご自分の命を与えたのだ。彼は罪ある者とされ、罪をあがなわれた人々は解放された。罪の奴隷から解放され、主を愛し、主に仕えるようにされたのだ。
  3. キリストはその死において命を注ぎ出したが、死に打ち負かされることはあり得なかった。神は彼をよみがえらせ、彼が無実で正しいことを証明した。復活した後、イエスは造り変えられた体で弟子たちのところに現れた。これは、弟子たちが触れることのできる体だったが、死はそれに触れることはできなかった。父は、すべてのものとすべての人をキリストの支配に服従させるまで、御子と共に世を治めるために御子を引き上げた。やがて、悔い改めと信仰によって、神の一つの民としてすべての民族の刷新と和解に参画するすべての人のもとに、聖霊が送られた。彼らはすべての民族に神の救いの良い知らせを証しするために、新たな命と力を受けた。

そこで、誰でもキリストにある人は、神のみことばにより、神の霊によって形づくられた神の新たな被造物に属する。

  1. キリストが生きる者と死んだ者とを裁くために再び来られる時、神はその新創造の業を完成させる。その時、キリストにある人は皆、肉体を伴うキリストの復活にあずかり、神の被造物全体は造り変えられる。神の民は、諸民族が一致したものとして、救い主の支配の下に生き、永遠の命という生ける神の賜物を生きる、その独特の生き方は、礼拝として神に献げられる。このようにして、神の民は、すべての良いものの源である神を中心とする祝福の共同体において、神の世界を愛護する。
  2. 信仰によって、私たちはキリストの教会における自分の位置に着く。それは、ひとりの神の一つの民、三位一体の神の諸民族から成る一つの民としてである。信仰によって、私たちはキリストの死にあずかるバプテスマを受け、罪を赦され、新しい命によみがえらされ、キリストの一つの体に組み入れられる。信仰によって、私たちは復活されたお方の義のゆえに義と認められる。信仰によって、教会はキリストにあって、聖霊によって、神の住まいとなる。神は尽きることのない命の源である。信仰によって、私たちは神の支配の下で、神の支配のために生きる。信仰によって、私たちは神の被造物とお互いの面倒を見、愛護する。私たちの社会において神の正義を追求する。そして、誠実な奉仕という平和的な人生を生きることに努める。信仰によって、私たちは死が滅ぼすことのできない者として生きる。なぜなら、私たちはキリストのうちにあり、私たちの命は神の命のうちにあるからだ。
  3. 私たちは地域教会に集う時、すべてのものの真実のストーリーである福音を生き、予行演習し、思い出す。憐れみに満ちた福音の著者とその業を、私たちの礼拝において祝う。福音の最も重要な瞬間を私たちの教義において明示し、重要なものを抽出する。福音のパターンと命令に自分の生活を沿わせることによって従うことを、神の民に教える。愛、正義、赦し、和解の実践において、私たちは福音の効果を表現する。私たちは福音が目標とするもののために祈る。私たちは個人および集団の生活において、福音の価値観を反映する。私たちの存在、実践、告知を通して、福音のストーリーを地の果てまで告げ知らせる。そのようにする中でいつも、すべての被造物とともに、新創造の完成を求めて私たちはうめき、「主イエスよ、来てください」と叫ぶ。

「父なる神よ、あなたの御子によって、あなたの霊を通して、新創造の完成をもたらしてください!」

II. 聖書:私たちが読み、また従う聖なるみことば

ローザンヌ運動発足以来の一つの柱は、聖書に対する揺るぎない献身である。聖書は神の権威あるみことばであり、教会とその宣教、そしてクリスチャンの生活にとって、信仰と実践との唯一の規範である。しかし、聖書を重んじるこの考え方は必ずしも、キリストに似た弟子をつくるために福音を擁護し、教会の宣教を強化するような忠実な聖書解釈を生み出してはこなかった。それどころか、しばしば複数の対立する解釈が、神の栄光と福音の真理を証しするための教会の実効性を脅かしている。そこで、聖書を重んじる考え方を肯定するために必要なのは、歴史的、文学的、正典的文脈に注意を払い、聖霊によって啓発され、教会の解釈の伝統によって導かれるような聖書の読み方である。教会が今日最も必要としている、聖書についてのきわめて重要な確認事項は、聖書の性質にまつわる事柄だけでなく、聖書の解釈にまつわる事柄でもある。すべての時代と場所における聖徒の交わりとともに、どうやって聖書を忠実に読むかが問われている。

聖書は人の言葉で記された神の言葉である。

  1. 私たちは、聖書は書かれた神の言葉であり、神によって霊感され、神の息を吹き込まれた、旧新約聖書から成る66巻の書物で構成される著作集であると確認する。多様な人間の著者と文学的ジャンルを通じて、聖書は、イエス・キリストにある一つの民を神がご自身のために選ばれたというストーリーについて、一体化された一貫性のある証しを形づくる。聖書は神の自己啓示であり、それゆえに教会の正典である。聖書は教会の権威ある、誤りのない、聖別された文章であり、神の聖別された民を招集し、統治する。聖書は全面的に真理であり信頼に値し、教会の生活にとって最高の規範である。聖書に霊感を与えたのと同じ霊が、今も教会の理解を助け、神の光と命と真理と恵みを伝えている。

聖書の中心的メッセージは、神の国という良い知らせだ。

  1.  聖書の中心的メッセージは、神の国という福音であり、イエスの受肉、死、復活、昇天、再臨の告知であると私たちは確認する。この福音は、アブラハムの子孫を通じてあらゆる民族を祝福するという神の約束の成就である。そういうわけで、私たちはこの福音に従い、この福音に導かれながら、聖書全体を読む。福音において、神は悔い改めてイエス・キリストを信じるすべての人に、罪の赦し、聖霊の賜物、そして永遠の命を与える。福音は、イエスが神に仕えるためにご自分の教会を建てているという良い知らせだ。神は、その被造物を和解させ、刷新し、罪とその結果を被造物から取り除き、神のご栄光を現わす。この同じ福音は、私たちがキリストの権威に服従することを求める。それは、福音を信じる信仰により、私たちが聖書を読む中で、聖霊によって造り変えられるためである。(イザヤ52:7、マルコ1:14-15、創世記12:1-3; 18:18-19、ガラテヤ3:16、19)

聖書の目的は、弟子をつくり、教会を建て上げることである。

  1. 神の民、すなわち教会を生み出し、統治するために、神は聖書において語られることを私たちは確認する。聖書は信じる者を、神のかたちであるキリストにならうように招集し、福音にふさわしい生き方をするように奨励する。聖霊は聖書を通して働き、キリストの体、そしてキリストの体のうちにキリストのこころを形づくる。神は聖書を用いて神の民を形づくる。これは諸民族から成る一つの民であり、神のみこころが天でなされるように地において行う共同体として、神の宣教に参画する。(コロサイ1:15; 3:10、エペソ4:24、マタイ6:10)

私たちは聖書の文脈に注意を払うことによって、聖書を忠実に読む。

  1. 聖書を忠実に読み、また解釈するために、教会は聖書の歴史的、文学的、正典的な文脈に照らして読む必要があることを私たちは確認する。歴史的文脈に照らして読むとは、本文の背景にある社会と、執筆の経緯に注意を払うことである。文学的文脈に照らして読むとは、それがどのような文学形式であるか、そして、より広い文脈における言葉や思想の流れにことさらに注意を払うことである。正典的文脈に照らして読むとは、各部分を旧新約両書から成る聖書全体に照らして読むことである。聖書本文を、正しい歴史的・文学的文脈に置くことは、著者が意図したそもそもの意味を見出すために必要な手順である。聖書本文を正典的文脈に据えることによって、教会は、その本文を神のみことばとして読むことができ、神がその民に歴史上一貫して与えてきた統一のとれた物語として読むことができるようになる。その物語のクライマックスはキリストが世に来られることである。

私たちは聖霊に啓発されつつ、忠実に聖書を読む。

  1. 聖書の執筆を見守っておられた聖霊は、教会が祈りつつ依り頼みながら、聖霊の助けを求める時、聖書解釈において今も教会を導かれると私たちは確認する。教会は聖書に聞き、聖書を読み、聖書を解釈し行う者たちの共同体である。聖霊の導きは、そのような教会において、教会がキリストを世に伝え示すという決意に力と情報を与えるための、聖霊の能動的で継続的なご臨在の一部である。聖霊は、聖書の真正性、信頼性、十全性、信ぴょう性について、内在的な証しを提供する。聖霊は、信者がみことばと神のみこころを理解し、それらに服従することができるようにする。(2ペテロ1:21)

私たちは伝統につながり続けることによって、忠実に聖書を読む。

  1. 聖書の福音的(福音を中心とした)解釈は、最近の動向ではないことを私たちは確認する。これは、使徒的教会にまでさかのぼる長年の解釈の伝統である。聖書の忠実な解釈は世界教会に属するもので、多様性のただ中にあって福音の一致を求める、地域、歴史、教派において様々な背景を持つクリスチャンどうしの会話を呼びかける。私たちは伝統の必須で肯定的な役割を確認する。伝統は、同じ聖霊によって導かれ、同じ聖書を通してイエス・キリストの同じ福音を信じた過去の世代の人々からの、忠実な読み方の継続性を受け渡す。解釈に対する福音的アプローチが忠実であるためには、この伝統を重んじなければならず、私たちが聖書を読むにあたって、伝統は聖霊に力づけられた導き手でなければならない。

私たちは地域の文脈に配慮することによって、忠実に聖書を読む。

  1. 聖書を忠実に読むためには、社会的文脈が重要であることを私たちは確認する。聖書の解釈は、社会から孤立して行われることは絶対にない。文化や言語は、重要な役割を果たす。聖書解釈は困難を伴う。なぜなら、私たちの前提、個人的体験、また文化は、強力な影響を与え、解釈をゆがめる可能性もあるからだ。しかし、聖書の全般的理解を深化させるために、地域共同体はその各々の文脈の内部から積極的な資源を提供する。各地域教会は、その独自の文脈において、独自の文脈のために、忠実に聖書を読むにあたり、全教会を代表すると同時に、その地域の文化から、全教会の益となるような独特の洞察を提供する。

私たちは地域教会に読み、聴く文化を形成することにより、忠実に聖書を読む。

  1. 私たちは地域教会に呼びかける。聖書を公同の場で読むこと、そして個人でもグループでも礼拝共同体としてでも、聖書の忠実な読み手と聴き手を育てることに力を注ごう。そのような文化を形成するにあたり、私たちは、神のみことばと、みことばが告知する福音とが、私たちの世界観と生活を形づくるようにしなければならない。そこで、キリストの体に属する全員が国際的に協力する必要があること、そして、古代の信条、告白、教会の伝統に注意を払う必要があることを、私たちは確認する。聖霊に導かれつつ、時空を超えた聖徒の交わりの中で読み、また聴くことによって、地域の共同体は、聖徒たちに明確に伝えられた信仰に踏みとどまることができるようになる。教会が今後数十年にわたり活躍するために、キリストの唯一の主権を多くの方法で、多くの場所において忠実に伝え示す、聖書を忠実に読みまた聖書に聴く共同体へと、私たちは自らを育まなければならない。[1](ユダ3)

III. 教会:私たちが愛し、また建て上げる神の民

「ローザンヌ誓約」(1974)はこう述べる。「世界伝道は、全教会が、全世界に、福音の全体をもたらすことを要求する。」第4回ローザンヌ世界宣教会議(2024)は、そのテーマを「教会はともにキリストを伝え示そう」とした。したがって、私たちが「教会」をどう考えるかは、非常に重要である。教会の教義は、キリスト教が世界に急速に広がってきた過去数十年間には、あまり注目されてこなかったことを私たちは認識する。そして、教会とは何か、クリスチャンの生活における教会の重要性、私たちの世界に対する教会の妥当性について、コンセンサスが乏しいことも私たちは認識する。その結果としての混乱によって、キリストとその福音の価値をゆがめるような、正統からそれた形の教会が生まれる道筋ができた。この混乱によって、受洗した信者の間にも幻滅が広がり、彼らは正規の、あるいは組織的な教会から遠ざかるようになった。今日のクリスチャン、特に第一世代の信者は、教会についてのより包括的な聖書的理解を必要とする。すなわち、彼らが「真理の柱と土台である、生ける神の教会」(1テモテ3:15)である神の家で行動する時に、彼らのうちに大いなる感謝と忠誠心を育むことができるような理解を必要とする。

教会は神の民の交わりである。

  1.  古代の使徒信条は、「聖徒の交わり」に対する私たちの共通の信仰を言い表す。イエス・キリストの救いの業によって、三位一体の神は聖霊によって、神の民を一つの聖徒の交わりとして集め、一致させてくださる。教会における神との、また兄弟姉妹とのこの交わりは、私たちの業ではなく、神の賜物である。ペンテコステの日に、イエスが父から神の民に、約束の聖霊を降してくださった時、神はこの一致を明らかにされた。神はその民を送り出し、良い知らせを告知し、ご自分の新たな共同体に他の人々を引き寄せ、キリストの体の一員としてバプテスマを受けさせ、神の宮として聖霊の内在を受けさせた。今もなお、主イエスは教会に聖霊を注ぎ続け、聖霊は教会において、また教会を通して、主イエスに栄光を帰し続けている。(1コリント12:27; 2コリント6:16)。
  2. 個人的な悔い改め、信仰、神の恵みによって、キリストと一つとされた人は皆、キリストを自分の頭として戴き、ともにキリストの体を形づくる。したがって、私たちは個人として救われるが、救われて一人きりでいるのではなく、お互いとともにいるのだ。イエスの弟子として、聖霊は私たちを、キリストの流された血に対する信仰により、キリストの体の一員としてキリストと一体としてくださる。クリスチャンのバプテスマは、神の恵みのしるしであり、封印である。また、キリストに対する私たちの新たな忠誠を公に宣言するものであり、キリストの教会への私たちの新たな帰属である。(1コリント12:13)

教会は一つであり、聖であり、公同であり、使徒的である。

  1. 何世紀にもわたり、世界中で、キリストの民とともに、私たちはニカイア信条の表現をもって、教会は「一つであり、聖であり、公同であり、使徒的である」ことを告白する。
  2. 全世界で、また歴史を通じて、教会は神の一つの民であり、キリストの一つの体、霊の一つのバプテスマによる聖霊の一つの宮であり、キリストの一人の花嫁である。時間、空間、文化、言語を超えて、私たちはキリストとその完了した業によって一つとされ、聖霊の内住を受け、神の愛において結び合わされた、一つの教会である。(エペソ4:4-6、2コリント11:2)
  3. この世においてキリストの目に見える表れとして、教会はキリストのように聖くあるよう召されている。その聖さは、神のために取り分けられた者として生きるという私たちの決意によって示され、キリストに似た人柄と行動によって立証される。(2テモテ2:21、1ペテロ1:14-16)
  4. イエス・キリストの教会は公同である(普遍的ですべてを包含する)。それは、民族性、性別、地域、地位、能力に関係なく、キリストに属する者はすべて、キリストの新たな共同体、すなわち教会のうちに平等に所属するという意味においてである。したがって、すべてのメンバーに居場所がある。なぜなら、各部分は教会の全体を構成するために必要とされるからである。少年と少女、女性と男性、教職者と宣教師、家庭管理者、教育者、労働者、専門職従事者、マーケットプレイスのリーダー、すべての人に居場所がある。
  5. 公同の教会において、人間の文化はどんなものであれ、卓越性を主張することはできない。人間の文化はすべて、あらゆる知恵を持つ神の前に服従を表してひれ伏さなければならない。そして、そうする時に、それぞれの文化は、私たちの聖書理解と福音の告知に貢献する。このようにして、神は私たちの多様性のただ中にあってご自分の栄光を伝え、また示すために、私たちを一つにする。地域教会は、公同の教会の目に見える唯一の表れである。地域教会は神の宮の栄光を表し、その宮において、イエス・キリストに属するすべての人は、生ける石のように、自分の正当な居場所を得る。(1コリント3:16-17; 12:12-27、エペソ2:20-21、1ペテロ2:4-10)
  6. この一つの聖い公同の教会は、使徒的でもある。ペンテコステの日に聖霊が注がれた時、教会はイエス・キリストの良い知らせを公に証しし始めた。それ以来ずっと、この同じメッセージを全世界に告げ知らせてきた。歴史を通じ、あらゆる場所において、教会は使徒的であり、キリストの十二使徒の教えを堅持することによって、彼らに連なって立つ。その教えは神の民に決定的に委託され、世代から世代へと継承されてきた。この生ける活力あるみことばという賜物を通じて、神は私たちに信仰と新しいいのちを与えることによって、ご自分の教会を建て、その教会をキリストの似姿に形づくる。(ローマ10:17、1ペテロ1:23、ユダ3)

巡礼者の教会は、外からの課題と内からの脅威に直面している。

  1. 教会はつねに危機に直面してきた。私たちの主が言われたとおり、この世では多くの試練がある。どの時代にも見られるとおり、神の忠実な聖徒たちは迫害や激しい反発に遭ってきており、今日もそうである。時には愛する主のために自分の命を危険にさらしている。教会は殉教者の血の上に建てられている。それでも、教会の戦いは血肉に対するものではなく、闇の勢力に対するものだ。邪悪な者はキリストの教会に対して陰謀を企てるが、イエスは約束したとおりご自分の教会を建て続け、よみの門もこれに打ち勝つことはできない。(ヨハネ16:33、エペソ6:12、マタイ16:18、黙示録1:18)
  2. 教会は福音という宝を「土の器」、すなわちもろさと謙遜のうちに持っている。教会それ自体に目を向けさせようとするのではなく、すべてを超越する神の力に向けさせようとする。したがって、教会はその反対者に抵抗するにあたり、この世の権力や武器によるのではなく、正義という霊的な武器で完全武装して、神の力によって逆境と苦難を耐え忍ぶ。大国は台頭しては滅びるが、教会はその主によって支えられ、堅固であり続け、生ける神の家、また真理の柱と土台としてふるまうように召されている。(2コリント4:7、ヨハネ18:36、2コリント6:7、1テモテ3:14-16)
  3. しかしながら、教会は必ずしもこの召しに忠実ではなかったことを、私たちは悲しむ。聖書は明確に語っているが、教会の活力と、教会が語るメッセージの真実性にとって、より大きなリスクの出所は教会内部にある。政治権力、社会による承認、そして世の楽しみという魅惑に教会は頻繁に屈服し、この世において神の預言的証しを立てるという命令を棄て去ってきた。そうした事例においては、教会は抑圧の片棒をかつぎ、不正行為の共犯者となり、この世における信ぴょう性を失ってしまう。こうした妥協は、世的な欲望に過ぎないものを満たすために、みことばをわい曲することによって、教会が聖書の権威から遠ざかってしまったことの結果であり、またはこうした妥協が原因となって、教会は聖書の権威から遠ざかる。忠実な信仰と慣習(正統性と慣習の正しさ)という二本柱は、教会がキリストと十字架から目をそらす時にむしばまれる。このような過去の失敗と罪とを私たちは嘆き、聖霊のとがめと私たちの主の教えとを無視し続けている、様々な点について悔い改める。(1テモテ4:16)

教会は礼拝のために集まる時に成長する。

  1. 主イエスは、御子を通して聖霊によって父なる神を礼拝するために、定期的に集まるよう、ご自分の教会に命じる。こうした集まりによって、みことばが読まれ、告知される時に、私たちがイエスと親しくなり、イエスの知識を増すようにとイエスは私たちを招く。また、バプテスマと主の晩餐とにおいて、イエスの恵みを見て、感じて、味わうようにとイエスは私たちを招く。(使徒2:42)
  2. キリストの一つの体として、また聖霊の一つの宮として、教会は主としてその礼拝を通じて、共同体としてのアイデンティティを示す。公同の礼拝において、私たちは教会というものを実践し、教会であるとはどういうことかを示す。これはつまり、礼拝は本質的に共同体の行事だということだ。したがって、公同の礼拝は第一義的に神との個人的関係を育むためのものではない。公同の礼拝は「王である祭司」と「聖なる国民」が「あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった」神の栄誉(賛美)を告げ知らせるものである。(1ペテロ2:5、9)
  3. 教会は、言葉と聖礼典において三位一体の神を礼拝することによって、自らを神の民として他から区別する。礼拝のこの二大要素は、教会を定義するしるしである。したがって、礼拝は教会が行う多くの活動のうちの一つではなく、教会の基盤となる活動である。礼拝は、私たちのあらゆる宣教努力が向けられるべき究極の目標だ。宣教の業は、イエスが戻って来られる時に終わるが、礼拝は永遠に続く。だから、基盤的活動としての礼拝に、よりいっそう注意を傾け、説教と祈りと賛美をとおして、礼拝をいっそう公同的体験とするようにと、私たちはすべての教会に呼びかける。
  4. 適切な秩序を伴う礼拝は、地域教会の権威と規律の下に行われる。これは、信者個人だけでなく、教会全体の健全性にとって不可欠である。そこで、私たちはすべてのクリスチャンに対して、地域教会の権威に服すようにと呼びかける。地域教会が健全性と成熟性において成長するにつれて、各個人も成長するのと同じように、個人が知識、親密さ、説明責任において成長するがゆえに、地域教会も成長する。(1コリント5:1-6:11、ヘブル10:25)
  5. 教会のかしらであるキリストは、ご自分の民の成熟と立て上げのために、ご自分の教会のうちに働きと奉仕の賜物を配置した。聖霊に力づけられた非常に多様な賜物が、公共の利益のために教会員の間に分配されている。個々の信者がミニストリーの働きを行うための責任を帯び、キリストに似た愛をもって兄弟姉妹に仕えるために、神から与えられた賜物を用いるにつれ、キリストのからだは成長する。このミニストリーは神の民全員を力づけ、イエス・キリストに栄光を帰させる。それはワークプレイスでも、マーケットプレイスでも、家庭、学校、地域社会でも、神の民が仕えるために召されているあらゆる場所においてである。主イエスがご自分の教会を愛し、その守りと幸福のために絶えず執り成しておられるという確信に満たされて、彼らは様々な召しを全うするのである。(ローマ12:6-6、1コリント12:4-11、エペソ4:7-16)

教会は、多様でありながら忠実な方法でキリストを示す。

  1.  教会はすべての社会において、地域に根付いた対抗文化的なコミュニティを形成することによって、その公共の生活を表現するように召されている。地域教会には多様なかたちがある。少人数の信者が密かに集まる教会から、家の教会、公に見えるかたちで集まる相当大規模な会衆まで様々だ。デジタル空間の出現により、キリスト者はまた一つ、集まるための新たな手段を得たが、そのことによって、地域教会の性質とかたちについて継続的な神学的模索がなされるようになった。
  2. 地域教会は時代を通じて世界中で、伝統や形において目を見張るような多様性を示している。それらは独特の文化の影響や、教会が直面する固有の文脈における課題によって形づくられる。とはいえ、そうしたクリスチャン共同体が共有するもの、そして地域教会をキリストの体の真正な表れとするものは、イエス・キリストの福音に対する共通の信仰への応答としての、三位一体の神への礼拝である。それは、世界に分かち合うようにとキリストが地域教会に命じている信仰である。

教会の使命はキリストの弟子をつくることである。

  1. したがって、教会はともにキリストを伝え、示すために召されている。大宣教命令は、あらゆる場所にいるすべての信者を召して、福音のメッセージを信じる人々に洗礼を授け、イエス・キリストに真に服従するよう教えることによって、すべての民族を弟子とするという主のみこころに参画させる。みことばと聖霊の力において、神は私たちをみつめている世の眼前に福音の証しを立てさせるために、聖なる民として私たちを世に送り出す。私たちはキリストに満たされた存在感キリストを中心とした告知、そしてキリストに似た実践をとおして、これを行うのである。(マタイ28:18-20)
  2. イエスはその弟子たちに、世における彼らの存在の力強い影響力を悟るよう励ました。それは、弟子たちを「地の塩」にたとえることによってであり、塩はその本来の性質を維持しなければならず、その効力をけっして失ってはならないのである。使徒パウロは、福音に触発されたクリスチャンは「救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも」まさに「芳しいキリストの香り」なのだと描写した。このことによって、クリスチャンの個人および共同体の存在は、どんな社会環境にあっても、家族であれ、地域社会、学校、職場、公共の場であれ、希望の原動力とされるのだ。なぜなら神は、ご自分のあがなわれた民を用いて、ご自分の好意を示し、長い間神から離れてしまった世に、神は近くにおられることを知らせるからだ。(マタイ1:23; 5:13、2コリント2:15-16)
  3. 聖書によれば「信仰は聞くことから始まり」、聞くことは神のことばによる。したがって、イエス・キリストの良い知らせの忠実な告知は、教会の証しにとって必須であり、この務めのために主は聖霊を注ぎ、伝道のために教会員を力づける。神のことばによって、聖霊を通して、教会は福音による神の救いの力を示し、キリストがまだ知られていないところに福音を伝えるために、布告者を遣わす。家庭でも仕事場でも日々の証しによって、神はすべての民族と言語の中から、ご自分のもとに人々を集め続け、イエスのあがないの血によって彼らを救い、キリストのからだの一員として彼らを結び合わせる。(ローマ10:17)
  4. 教会はまた、そのキリストに似た実践を通して証しをする。福音の告知において世がキリストのことを聞く時、私たちの互いに対する愛、および隣り人に対する愛を通して、キリストの被造物を私たちが大切にする様子や、日々の召しにおいて私たちがすぐれた仕事をする様子を通じて、世はキリストを見ることもできるのである。信仰が聞くことによるように、信仰はつねに業を伴う。その業は私たちの主の模範にならって公共善を促進し、貧しい人や最も弱い人の保護を優先し、公正という大義を推し進める。(マタイ5:16、ヨハネ13:35、エペソ2:8-10、ルカ4:18-19)
  5. キリストが再び来られる終末のその日まで、教会は花嫁として、その花婿の帰還を待ち望みつつともに集まる。その時、代々の聖徒たちも復活する。そういうわけで私たちは、教会の希望が成就するのを待ち焦がれつつ、神ご自身が私たちとともに住み、私たちが全能の主なる神、すなわち父、御子、聖霊なる神を知り、永遠の礼拝を捧げ、「教会において、またキリスト・イエスにあって、栄光が、世々限りなく、とこしえまでもありますように。アーメン。」とあるように、神に栄光を帰する時を待ち望む。(黙示録21:3、エペソ3:21)

IV. 人間:神のかたちに造られ、回復される

今日、世は「人間であるとはどういうことか」という問いに心を奪われている。このため、人間に関するキリスト教教理はきわめて重要になっている。この問いにどう答えるかは、世における私たちの証しと私たちの教会生活とにとてつもない影響を与える。アイデンティティ、人のセクシュアリティ、先端技術がもたらすものといった諸問題について、世の中の大混乱のまさに核心に触れる。人間についての健全な教理はまた、教会内において、超人的な力や神のような権威を振りかざすリーダーが増えているという現象に対処するために不可欠である。

神のかたちは人間の本質である。

  1. 聖書の教えによれば、人間は唯一、神のかたちに造られた被造物である。この固有性には、世における管理者としての役割と責任が包含される。神のかたちを帯びているという賜物のゆえに、すべての人間には、性別、民族、人種、カースト、年齢、身体的・知的能力、社会経済的・文化的背景に関わりなく、生来の尊厳、平等性、価値が与えられている。三位一体の神は関係を持つ存在として人間を造られた。その関係には、神との人格的な関係と、共同体の形成とが含まれる。(創世記1:26-28; 2:15)
  2. 人間は身体と霊性が統合された存在であり、身体的側面を補完する霊的側面を有する。そういうわけで、私たちは体と霊のどちらか一方が、他方に優るという考えを却下する。
  3. 人間が神のかたちを十分に反映するための能力は、罪のゆえに制限されることを私たちは認める。罪は、私たちに固有の人間の性質や能力、他者との関係、世における人間の使命を損なう。罪は人に悪影響を与え、他者を本来的価値を持つ人としてではなく、物体として扱うようにさせる。時にはクリスチャンでさえ、神のかたちを自己利益のために罪深くも誤って解釈し、他者を過小評価し、非人間的に扱ってきた。

神のかたちはキリストにあって回復される。

  1. 神の子イエス・キリストは神のかたちであると私たちは確言する。その受肉によって、彼は第2のアダムとして完全に人となった。最初のアダムとは違い、彼は罪のない生涯を送り、それゆえに人類を罪と神からの疎外とからあがなうための資格を得た。神の卓越した完璧なかたちとして、イエス・キリストは人間の理想のかたちであり、すべての信者は聖霊によって、そのかたちに造り変えられていく。私たちは神のご性質にあずかるにつれ、恵みによりキリストの似姿に一致させられていく。このキリストの似姿は、私たちの人柄、実践、欲求、願望が刷新されるに伴って露わにされ、キリストの再臨の時には、私たちの体がキリストの復活の体に似たものへと造り変えられる時に露わにされる。(コロサイ1:15、ヘブル1:1-3、ヨハネ1:1, 14、ピリピ2:1-11、エペソ1:10、ローマ5:12-14、1コリント15:45-49, 50-54)
  2. 教会は神の新しい人類であり、信者を神と和解させ、また信者どうしを和解させるキリストにより創造される。この新しい人類は、真の完全な人類を定義するお方である、キリストのかたちを帯びるように造り変えられていく。(エペソ2:14-16、ローマ8:9; 12:1-2、2コリント3:18)
  3. 神のかたちを帯びる者として、あがなわれた人類は、教会の公益に資するために、また世において神に栄光を帰するために、賜物と働きを与えられる。一人ひとりのクリスチャンは、その様々な賜物と召しを通して、神の国に参画する特権と、神の国の大使であるという特権を与えられている。だが、この現れと実践はすべて、福音と聖書についての使徒的証しに照らして検討され、誰も偽りの福音に欺かれたり、神の栄光を奪うことに参画したりしないようにするべきである。(1コリント12:4-7、ローマ12:4-8、エペソ4:11-16、1コリント1:4-8、1ペテロ4:10-11、マタイ7:15-16、ガラテヤ1:6-9、1ヨハネ2:19、ユダ3-4)
  4. 新しい人類について、キリストに似た理想像に相反するあらゆる偽りの考えに私たちは失望する。そして、キリストの似姿からそれていくクリスチャンリーダーのあり方を、私たちは嘆く。それは、繁栄の福音や名声を重んじるミニストリーにおいて、実際に見られることであり、中には神性を有するとさえ主張するリーダーがいる。キリストのリーダーシップの模範は、霊的権威のしるしとしてそのような主張をすることや、他者を操ることに疑義を呈する。神の国における生き方を特徴づけるのは、謙遜、悔い改め、神の恵みに依り頼むことである。(ルカ9:23、ピリピ2:8-11; 3:18-19、1コリント15:9-10、1ヨハネ1:8-10)
  5. 私たちは体のよみがえりと、新創造の成就を待ち望む。その時、人間における神のかたちと神の似姿は、全面的に刷新される。その時、神の民は、神、お互い、そして全被造物と共に生きることとその交わりとを心ゆくまで楽しむ。(イザヤ65:17; 66:22、2ペテロ3:13、黙示録21:1-4)

神のかたちと人のセクシュアリティ

性的アイデンティティに関するキリスト教理解

  1. 創造についての聖書の記述は、人が男と女としての明確に定義可能な身体的特徴、および男と女としての関係的特徴を備えた性的存在として造られていることを認める。個人の「性別」とは、男を女から区別する生物学的特性を指し、一方「ジェンダー」は、男または女であることに伴う心理的、社会的、文化的関連性を指す。人間は男も女も、神が造られた地の保護において創造主を代理しつつ、神のかたちを帯びていることを聖書は疑いの余地なく肯定する。(創世記1:26-28; 2:22-23)
  2. 私たちは、あらゆるセクシュアリティのゆがみについて嘆く。私たちがどのように創造されたかに関わらず、個人が自分のジェンダーを決定してよいという考えを私たちは却下する。生物学的な性別とジェンダーとは区別可能かもしれないが、不可分なものだ。男性らしさと女性らしさは、人間がどのように創造されたかに内在する事実であり、その事実については様々な文化が、男女の区別というかたちで表現している。私たちはまた、ジェンダーの流動性という考え(ジェンダー・アイデンティティやジェンダー表現は、状況や体験によって変動するという主張)をも却下する。
  3. ただし、歴史を通じて、出生時に性別が顕著に明らかでない人(今日、大まかにインターセックスと呼ばれている)は、重大な心理的・社会的困難に直面してきた。聖書において、神は宦官(かんがん)が疎外や痛みを経験していたことについて、心からの気遣いを示し、神に信頼を寄せた人々には、より良い未来を用意し、彼らの尊厳の回復を約束した。同様に、神の民は、今日同じような状況に直面する人々に対し、同情と尊敬をもって応答するよう召されている。(イザヤ56:4-5)

結婚と独身についてのキリスト教的理解

  1. 聖書において最初に結婚が出てくる個所を見ると、結婚は神が定めたものだとわかり、結婚は一人の男と一人の女の排他的な絆として描写されている。これがもたらすものは、聖書が「一体」と呼ぶ新たな実体である。そういうわけで、神の設計図によれば、結婚は一人の男と一人の女の間の、固有で排他的な契約関係であり、彼らは生涯、相互の愛と相互共有を伴う肉体的・情緒的な結合体となることを約束するものだと私たちは確言する。(創世記2:24、マタイ19:4-6)
  2. さらに、契約による結婚は性的交渉のための唯一の正当な背景であるということを、聖書の教えは支持している。結婚の枠組み以外でのセックスは、創造主の設計図と意図に対する罪深い違反であると宣言する。
  3. 同性パートナーシップを聖書的に正当な結婚であると規定するための、教会におけるあらゆる試みを私たちは嘆く。キリスト教教派や地域教会の中には、そのような関係を結婚として神聖なものとするという社会の要求や主張を、黙認しているものもあることを私たちは悲しむ。
  4. 結婚は、後続世代の育成のために必要な環境を提供することによって、人間の繁栄に資するために神により意図されているものであることを、私たちは確認する。忠実な結婚は、家庭生活の強い絆を育て、自由の範囲を適切に定め、境界線が定まった養育的な環境を形成し、その中で子どもが健全に育つことができるようにする。
  5. 結婚の聖書的ビジョンは、子をもうけるという創造主の指令を達成することを含むが、同時にカップルのために交わりと喜びを与えるものだ。性的自由を個人的・社会的善と了解されたものとして追求することによって、結婚においてセックスが子孫をもうける役割を持つという側面が軽視され、しばしば子どもの価値を低減させたり、世界中での中絶の大幅増加につながったりしていることを、私たちは悲しむ。(創世記1:28; 2:18-25)
  6. キリスト教における結婚は、キリストと教会との関係を模範とし、それゆえに、福音の完遂を証しするユニークな手段である。なぜなら、夫と妻はイエス・キリストの主権の下にある弟子として、互いに自分の責任を全うするからである。そこで、結婚することを選択するクリスチャンは、自らの結婚関係と、生まれてくる子ども、あるいは養子縁組する子どもの養育を大事にするために、必要な努力をしなければならない。(エペソ5:22-31)
  7. 結婚は、すべての社会において成人にとっての完成形と考えられてきており、結婚において夫と妻は互いに補い合うが、結婚は人を完全なものとするために不可欠なステップではない。既婚者も独身者も、創造主のみこころを成就し、イエス・キリストの証しをすることが十分にできる。一人ひとりの個人は、神のかたちに造られた者として、結婚関係以外の人間関係において最大限の能力を発揮する、完全な人間である。主イエスは理想の人間として、独身者の人生についてのこの真理の模範を示した。使徒パウロは、こう強く主張した。独身であることは、なりゆきでそうなったとしても、自ら進んでそうしたとしても、既婚者にはできないようなかたちで、神の国の大義に仕えるための独特の機会をクリスチャンに提供するのだと。(1コリント7:32-35)
  8. 私たちはすべての地域教会に呼びかける。教えること、メンタリング、相互に励まし合うネットワーク、実際的な支援を通じて、キリスト教信者の共同体内にいる独身者と既婚者の両方を支援しなさい。そのような共同体は、結婚における深い友情と愛と忠実、親を敬うこと、イエス・キリストの主権に忠実に仕えるという文脈において子どもを全力で養育することという聖書的価値観の模範を示すことによって、福音の力を証しし、神の栄光を証しする。

同性の性的関係についてのキリスト教理解

  1. 同性どうしの性的親密さは、人類の文明が始まって以来見られる現象であり、聖書は旧新約両方において、そのような実態があったことを示している。聖書の中で6か所において、同性どうしの性的行為について明示的に言及されている。今日の社会と教会にとって、この問題はきわめて重要であるため、クリスチャンは聖書で同性どうしの性的親密さに言及されているすべての個所と、その文脈における意味についてよく知っておくことが不可欠である。創世記19:1-3、レビ記18:20; 20:13、ローマ1:24-27、1コリント6:9-11、1テモテ1:9-11:
    • 旧約聖書は、創世記19:1-3で同性どうしのセックスに言及している。それは、アブラハムとその一族の生活がソドムの文化と接触した時である。神はソドムの文化を悲しむべきほどに邪悪だと断言していた。ソドムの悪名は、様々なかたちの社会的悪によるもので、中でも町のすべての男たちがロトの客である男性たちをレイプしようとした件は、この町のあまりにひどい道徳的状況の証拠として、聖書の中で強調されている。(エゼキエル16:49-50、創世記18:20-21; 19:1-13、ユダ7)
    • 新約聖書の使徒の証しの中で、同性どうしの関係に言及しているのはローマ1:18-27、1コリント6:9-11、1テモテ1:9-11だが、その背景はギリシャ・ローマ文化だった。歴史的文献によれば、当時、同性どうしのセックスは普通に行われていたことが明らかで、特に上流社会では正常なこととされていた。この社会背景の中で、パウロが同性どうしのセックスを、淫らな行いや姦淫と同様の性的な罪に分類しているのは注目に値する。しかも、盗み、貪欲、酒におぼれること、そしり、詐欺などの一般的な罪のリストに含めている。1テモテ1:9-11では、同性どうしの関係を禁止するリストの中に親殺し、殺人、淫らな行い、奴隷売買、偽証も含まれている。これらを行う者はすべて、不法な者、不従順な者、不敬虔な者、罪深い者、汚れた者、俗悪な者と呼ばれている。
    • 1コリント6:9において、パウロはレビ記18:20および20:13の2か所の記述から、男性どうしのセックスを表す用語を編み出した。神への契約によって拘束されているイスラエル民族にとって、同性どうしのセックスは神の基準に反するものだと、この2か所のみことばは述べている。
    • ローマ1:24-27でパウロが同性どうしのセックスに言及する時、人類の神への反逆が、神の創造の秩序の拒絶につながったとパウロは表現する。人類の全面的な道徳的破綻のしるしとして、パウロは偶像礼拝や性的不道徳が広く行われていることを指摘する。性的不純については、パウロは具体的に女どうしのセックスおよび男どうしのセックスを糾弾する。これらの慣行は、当時の洗練された社会とみなされていたところで、明らかに普通に行われていた。
  2. 同性どうしのセックスに関する聖書の記述はすべて、私たちを以下の避けられない結論へと導く。神はこの行為を、セックスに関する神の意図に違反するもの、そして創造主の良いご計画をゆがめるもの、すなわち罪深いものとみなす。但し、福音は私たちに保証する。無知からにせよ、承知の上であるにせよ、誘惑に陥り罪を犯した者は、告白と悔い改めとキリストへの信頼によって、赦しと神との交わりの回復を見出す。
  3. 教会の内でも外でも多くの人々が、同性に惹かれることを経験し、一部の人々にとっては、惹かれるのは同性だけであったり、あるいは圧倒的に同性であったりすることを私たちは認識する。クリスチャンは誘惑に抵抗し、願望と行動の両方において性的な聖さを守らなければならないと、聖書は一貫して主張するが、このことは同性に惹かれる人々に適用されるのと同様に、異性に惹かれる人々にも適用される。だが、同性に惹かれるクリスチャンは、クリスチャン共同体においてでさえ困難に直面することを私たちは認める。キリストのからだに属する兄弟姉妹に対して、私たちは愛に欠けていることを私たちは悔い改める。
  4. クリスチャンリーダーおよび地域教会に対して、私たちは要請する。私たちの共同体の中に、同性に惹かれることを経験する信者が存在することを認識し、牧会ケアや、愛と友情に満ちた健全な共同体を形成することをとおして、弟子づくりにおいて彼らを支援するように。.[2]

V. 弟子づくり:聖さと宣教への私たちの召し

神は、その憐れみにより、過去半世紀にわたりローザンヌ運動を通して働いてこられ、世界中の福音が伝えられていない民族やコミュニティへの伝道を促進し、不正、抑圧、差別を前にして、社会問題の意識を人々に植え付けてきた。この二重の強調点はしばしば、「包括的宣教」という考え方の中で一体化されてきたが、包括的宣教は、弟子であれという主の命令と、弟子をつくれという主の委託とを必ずしも十分に一体化してこなかった。その結果、私たちは十字架につけられた主に従う者であると主張しているにもかかわらず、主が私たちに示された聖い生き方にのっとって生きること、また同じように生きることを他の人々に教えることを、しばしば怠ってきた。この結果として、世界中の福音派諸教会から絶え間なく報告されているのは、リーダーによる財務不正、性的な不品行や虐待、権力乱用、そしてそれらの失敗を隠ぺいしようとする動き、その一方で彼らのゆえに苦しみに遭った人々の痛みが無視され、霊的な無気力と未熟さが存在することである。私たちはこうした失敗を悲しみ、私たちの罪を嘆く。私たちはへりくだって悔い改め、私たちのうちに聖さが生み出されるために、福音の恵みをつねに切実に必要としていることを告白する。聖さがなければ、だれも主を見ることができない(ヘブル12:14)。そこで、私たちは以下の信仰告白を守ることを決意する。

弟子とはイエスに従う者であり、神を愛し、人を愛する人生のために福音によって形づくられる。

  1. 弟子であるということは、キリストの受肉、生涯、死、復活、昇天という良い知らせに合致する生き方において、形づくられることであると私たちは確言する。この良い知らせによって、神はその愛においてご自分の民を罪から救い、天に昇ったキリストによる聖霊の注ぎを通して、ご自分の聖く正しい支配の下に生きるための力を、憐れみ深くその民に与えた。その結果、宣教は弟子をつくることに正しく目標を定められ、弟子たちの神への愛と人への愛は、一つの不可分の心のうちに結び合わされる。この成果は、神が人の心にご自分の律法を記すという、神の業として正しく理解される。この業によって、私たちは神の一つの聖い契約の民として生きることができるようになる。この民はあらゆる民族から成り、主のしもべであるイエスの業を継続し、世にいのちと光をもたらす。この神の業の達成の具現化として、地域教会は、このように達成を目指される宣教の手段であり、また目標である。(エレミヤ31:31-34、マタイ22:36-40)

私たちの主イエスは、弟子であれと私たちに命じ、弟子をつくりなさいと私たちに委託する。

  1. 神の民の使命は、主イエスがその弟子たちに与えた委託命令を遂行することであると私たちは確言する。すなわち、反逆的で壊れた世界に御子を送ることを通して、神が成し遂げたことを告知することによって、弟子をつくることである。神の良い知らせをすべての民族に告げ知らせるという務めを託された人々は、自分自身が弟子として生きなければならず、私たちの使命の正しい目標は、主が教えたすべてのことに従う弟子として生きるために、良い知らせを聞いて信じる人々を変革することであると理解しなければならない。個人のこの変革によって、神は福音を通じて人類をキリストのかたちに回復させるために、そして、それと同時に全被造物を刷新し、回復させるために、その使命を成し遂げる。人類を刷新するという神の目的の成就のかたちは、すなわち地域教会であり、すべての時代と場所における、あらゆる国民と民族から成る神の民のうるわしい集まりの現れである。したがって、福音の育成力は個人と地域教会の双方をその対象とする。成熟した弟子の育成は、各メンバーが聖霊に力づけられて働きをすることによって、教会がキリストの完全な似姿に成長し、成熟することと分かちがたく結びついている。(マタイ22:37-40; 28:18-20;、エペソ4:11-14)

私たちは良い知らせを告げ知らせることなしには弟子をつくることはできず、壊れた世界に深く関わることなしには弟子でいることはできない。

  1. 私たちは確言する。個人としてにせよ、共同体としてにせよ、弟子として育成される人は、家族、地域社会、学校、仕事場、社会において、不正と罪によって損なわれた世界に必然的に深く関わることになる。したがって、宣教における私たちの務めは、単にキリスト教信仰の告白を導き出すためのメッセージを告知することではない。むしろ私たちの伝道の務めは、十字架につけられた救い主のメッセージに一致する生き方をする中で、他の人々がこの同じ生き方をするようになるのを見ることを目標として、そのメッセージを告知することである。私たちの個人としての生活、家庭、教会、そして私たちが生きる社会において義を追い求めることは、福音の告知と分離することはできない。それは、弟子であることが弟子づくりと不可分であるのと同様である。

弟子として、私たちは福音の恵みの初期経験と継続的経験の両方として、変革を経験する。

  1. 弟子とは、その人生が福音によって変革された人であると私たちは確言する。この変革は、私たちが自分の罪を悔い改めて、良い知らせを信じる時に始まる。だが、良い地にまかれた種と同じく、良い知らせは即座に完全な変革をもたらすのではなく、すぐに変革の実を結ぶのでもない。むしろ、この変革は一生の間に徐々に起こり、その間に聖さと愛は増し加わり、福音の変革力が事実であることを証しする。この変革の初期体験と、継続的な実現との両方が、信仰を通して働く恵みによる神の聖霊の業であり、信者をキリストの生涯と一つにし、キリストのからだのうちにある信者どうしを一つにする。

地域教会は、私たちの弟子としての形成において必須の役割を果たす。それは、福音において恵みの手段を施行することによって、また地域教会の共同体としての生き様において変革力を経験することによってである。

  1. 地域教会は、その共同体としての生き様が十字架につけられたキリストのメッセージに一致する生き方を反映するにつれて、成長し、成熟することを私たちは確言する。教会がそのように反映する方法は、福音の告知、洗礼と聖餐における福音の定期的な叙述、祈りと賛美において福音に感謝を持って応答することである。教会内で、個々の信者は天に国籍を持つ者としてのふるまいを学び、聖霊によって自身に伝達された恵みを仲間の信者に取り次ぐことによって、その国籍にふさわしい生き方をする。教会内で、個々の夫婦は、キリストとその民との間の愛に満ちた結びつきと同じようになる。教会内で、個々の家族は、信仰ある家庭における生活によって、主の道において強められる。このように、教会とそのメンバーは双方とも、最も聖い信仰に立て上げられ、聖霊によってキリストのかたちに一致させられ、聖さと信仰と、私たちの主の再臨という罪を取り除く希望の人生を生きるよう励まされる。教会内で福音の働きによって整えられ、あわれみに満ちたキリストの模範に促されて、私たちは生活全体を礼拝ととらえ、教会外の人々の幸福を追い求め、私たちのすべての業において世が完全な姿に回復されるよう努めることを学ぶ。(エペソ2:19、ピリピ3:20、1テサロニケ2:12、ユダ20、1ヨハネ3:3)

地域教会はまた、ミニストリーのリーダー、宣教師、ミニストリー・パートナーのために、説明責任の提供、リーダーシップの健全なあり方と、ガバナンスの模範提示においても、必須の役割を果たす。

  1. 私たちはミニストリーのリーダーおよび宣教師に対し、地域教会と生き生きした交わりを維持し、地域教会に対する説明責任を持ち続けるよう呼びかける。このことはすべての弟子にも言えることだが、自分の地域教会外のあらゆるかたちのミニストリーに召された人々は、教会内のキリストのいのちに常にしっかりと結びつき、地域教会内の神の聖霊の継続的な業を反映しなければならない。主は摂理のうちに様々なミニストリーや宣教パートナーシップを起こし、地域教会と共働させ、ご自分の民が弟子となり、弟子をつくるために、民を磨き、整える。こうしたミニストリーは重要であると私たちは確言するが、同時に、地域教会に対して明確に焦点を当て続けることと、地域教会とのつながりを維持することとの重要性をも確言する。なぜなら地域教会は、神がキリストにあって形成しつつある新たな人類の具現化だからである。こうしたミニストリーは、その説明責任、透明性、監督のパターンおよび原則について、地域教会に与えられる聖書の教えを活用する時、キリストに栄誉を帰する。そうすることにおいて、こうしたミニストリーは、福音における霊的権威の存在を確保するような、単独の個人ではなく複数名によるリーダーシップおよびガバナンス構造を採用するであろう。[3] (使徒6:1-6; 15:1-35; 20:17-38)

VI. 諸国民から成る家族:私たちは紛争中の諸民族を目撃し、平和のために彼らに仕える

キリストの民は平和の民として知られなければならない。なぜなら、私たちが告知する福音は神と人との間、個人と個人、また民族と民族の間に平和をもたらすからだ。神の目的は、多様な民族がそれぞれの賜物や地上の資源を公正に惜しみなく分かち合う中で、繁栄するのを見ることである。私たちは、クリスチャンの共同体や個人の数多くの模範のゆえに神に感謝する。彼らは対立に悩む世界において、平和に過ごすように、そして平和をつくるようにという聖書の一貫した呼びかけを体現してきた。彼らは自分の評判や生命を危険にさらしてまで、キリストの平和を擁護しており、私たちは彼らを称賛する。だが、教会は必ずしも、世における自らの存在の決定的な性質であるべきキリストの平和を尊重してこなかった。明らさまにせよ、暗黙のうちにせよ、教会は暴力を支持し、戦争を助長するような活動や企てに関与してきたという歴史的先例がある。それらによって、教会が告知する福音の価値は損なわれている。あらゆる民族から成る集団であり、対立に引き裂かれた世にあってキリストを伝え示すように召されている教会から、キリストは何を望んでおられるだろうか。

対立に満ちた世にあって、福音をとおしてすべての民族を和解させるという、キリストにおける神の目的を私たちは確認する。

  1. ローザンヌ運動は、「未伝の民族」への宣教促進において、きわめて重要な役割を果たしてきた。それは、文化的に特徴あるすべての民族の一人ひとりが、神の救いのご支配がすべての民族、すなわちすべての人に及ぶという良い知らせを聞く必要があることを認めてのことである。国としてその統治対象とする人々に、良い知らせを聞かせないことを能動的に追い求め、福音を聞いて信じる人々を迫害している諸国(現代で言う「諸国家」)がある。そのような諸国がそのような行動をやめる日が来るように、私たちは祈る。私たちがこのことを祈るのは、個人のためだけではなく、彼らが一員となっている諸民族のためでもある。福音を通して神の目的の中心にあるのは、すべての民族が、互いに祝福し合うことを特徴とする関係において、キリストにあって和解することである。神のこの目的は、一人ひとりの心が変革され、自分自身のとは異なる文化的アイデンティティを持つ人々に対する愛で満たされる時に、初めて成就され得ることを私たちは確言する。
  2. 激しい紛争が和らぎ、疎遠であった共同体どうしが和解と調和の回復の機会を得たというような、全世界の数多くの状況について、私たちは共に喜ぶ。そのいくつかの例として、北アイルランド紛争、南アフリカのアパルトヘイト、ルワンダ大虐殺、スリランカ内戦などが、世界中のその他の紛争と共に挙げられる。このうち一部の状況では、神は平和の大義を擁護するために、教会、キリスト教団体、個人のクリスチャンを用いられたことを私たちは祝う。その中には、対立し合うグループの間にいる最前線の仲裁者として、あるいは交渉、影響力行使、とりなしを通じて紛争の目立たない場所で働く者もいる。
  3. 世界中のどの地域でも、いくつもの新たな武力紛争や戦争が、民族間、宗教間、国家間で勃発していることを、私たちは深く悲しむ。現在100件以上ある全世界の武力紛争は、中東およびアフリカ地域に最も多く集中している。現時点において、ロシア・ウクライナ戦争やガザでの戦争がメディアの最大の注目を集めているが、シリア、ミャンマー、スーダン、エチオピアなどでの激しい対立はほとんど触れられることがない。私たちはまた、特に朝鮮半島における戦争など、世界中に「忘れられた戦争」があることを認める。それらは一般の人々の目に触れることはないが、神は目を留めておられる。こうした戦争が引き起こす悲劇的な生命の損失と、社会に対する大規模な破壊について、私たちは深く悲しむ。後者は次世代が活躍する機会を奪うものだ。

私たちは沈黙を守ること、国家主義を促進すること、または問題のある神学による正当化によって不当に対立を支持することによって、暴力の糾弾と抑制を怠ってきたことを悔い改める。

  1.   国際問題に対する自分の影響力を利用して、単に自分の政治経済的利益を増進するために、回避できる紛争や戦争を助長する人々を私たちは糾弾する。そうした人々の行為が引き起こした多大な苦痛について、私たちは悲しむ。彼らはさばきの日に神の前で責任を問われるだろうと私たちは信じる。
  2. 私たちの資源をプールし、紛争地域の近くに所在する教会や人道組織による救援活動を支援することによって、戦争の中で被害に遭いやすい人々に仕えるようにと、私たちはすべてのクリスチャンに呼びかける。私たちはまた、紛争終結を目的とする交渉を支持し、暴力による罪のない被害者のために正義と補償を求めることによって、平和をつくる者として仕えることを決意する。
  3. クリスチャンは歴史上さまざまな時点で、暴力や戦争を助長してきただけでなく、そのような残虐行為を前にして、預言的な誠実さと勇気をもって発言することをせず、沈黙したままであった。このことは「ケープタウン決意表明」で次のように述べられている。

私たちは悲しみ、恥じつつ認める。民族的な暴力と抑圧の中でも最も破壊的な状況の一部において、クリスチャンが関与し、そしてそのような争いが起きた時に、大部分の教会は嘆かわしいことに沈黙していた。そのような状況としては、人種差別と黒人奴隷制度の歴史と遺産、ユダヤ人に対する大虐殺、アパルトヘイト、「民族浄化」、キリスト教内部の教派間の暴力、先住民族の大量殺戮、宗教間・政治的・民族的暴力、パレスチナ人の苦難、カースト制度による抑圧、部族の集団虐殺などが挙げられる。

  1. 私たちは次のように悔い改めを呼びかけている「ケープタウン決意表明」に賛同する。「クリスチャンは何度も、そのような悪に加担してきた。それは沈黙や無関心や知ったかぶりの中立主義によってであり、あるいは問題のある神学でそうした悪を正当化することによってである。」こうした問題のある神学による正当化は多くの場合、聖書の言う「国」と現代的な意味での「国家」の区別を怠ったこと、そして国籍について聖書的に考えることを怠ったことに端を発する。聖書では、国は独自の文化を持つ民族であって、そのアイデンティティを形成していたものは、大まかに定義された領土に対する歴史的結びつきと、一人または複数の神への礼拝であり、その神の民族に対する支配は王を通して行使された。これに対し「国家」(または現代的な意味での「国」)は、国際的に認知された政治的主権を、憲法で定められた機関および法律という手段によって施行する政府であり、その対象となる領土は明確に境界が定められ、その領土内に住む個人および民族が対象となる。現代のほとんどの国家は複数の民族を統治する。つまり、国境線内の複数のグループであり、彼らはその集団的アイデンティティを国籍だけから得るのではなく、民族性、人種、出身国、その他多数のかたちの集団的アイデンティティから得ており、それらは現代世界を豊かにしている。アイデンティティについて言えば、これらの独自の文化を持つグループは、現代国家よりも、聖書で言う「国」を形成した民族の姿に近いことがしばしばである。現代のすべての国家は、主権行使対象である個人や民族の両方について、そして近隣の人々について、公正であわれみ深い扱いをするようにという神の要請に応える責任があることを、私たちは確言する。
  2. クリスチャンが聖書で言う民族について明確に考えることは、きわめて重要である。それらの民族(たとえばイスラエル人、エジプト人、シリア人)は名称、歴史、地理、祖先によって現代国家(たとえばイスラエル、エジプト、シリア)に関連付けられ、またこれらの国家の政治的主権の下に生きている民族(ユダヤ人、パレスチナ人、アラブ人、コプト人、ドルーズ派、アルメニア人、クルド人、およびその他の多くの民族)とも関連付けられている。神は救い主イエスという良い知らせによって、ユダヤ人にも異邦人にも、これらすべての民族に対する約束を果たしておられる。中東において、また他の地域において、クリスチャンリーダーは、罪のない民間人に対する不当な暴力を思想的に正当化するような、あるいは国際人道法違反を合法化しようとするような、神学的誤りを正さなければならない。
  3. 一部のクリスチャンが、神の意図を世界にもたらすための鍵となる手段として、福音よりも国家に頼ってきたことを私たちは深く悲しむ。このことは、国家主義と結合される時に、特に残念なかたちをとる。ここでいう国家主義とは、各々の国家は単一の国民文化を持ち、それ以外のものを持つべきではないという信念と定義される。あるいは民族国家主義と結合される時にも特に残念なかたちをとる。これは、各民族集団は自身の国家を持つべきであるという信念である。このことは私たちの世界における重大な悪である。多くのクリスチャンが、悲しむべきことにこれに加担し、このような信念が助長する民族・人種優越主義の主張にも加担してきたことを、私たちは深く悲しむ。このことに反対して、私たちは断言する。いかなる現代国家も、救う力のある神の支配の特別な代理者であると主張することはできず、将来にわたってもけっして主張することはできない。

私たちは、イエス・キリストの福音がすべての民族に真の平和をもたらすように、世界中の対立する諸民族のために祈り、仕えることに献身する。

  1. 私たちは韓国インチョンにおけるこの歴史的会議のために集まるにあたり、キリストの平和と光が、朝鮮半島およびそこに住む人々を支配するように、祈ることに献身する。朝鮮半島の人々は、北朝鮮と韓国という政治的に別々の国に強制的に分断されている。この不当な分断と、何百万人もの民間人の死とトラウマとは、「忘れられた戦争」と呼ばれる。1953年の休戦にもかかわらず、対立は依然未解決のままであり、和解したかと思うと、緊張が増大するという悪循環の中で、不安定さは今日まで継続している。それでも、いつの日か朝鮮と朝鮮民族が一つになることを私たちは祈り続ける。1907年に北朝鮮の人々の間で起きた、すばらしい平壌リバイバルのことを私たちは思い起こし、私たちの兄弟姉妹であるクリスチャンに対する北朝鮮政府の迫害がやむように、私たちは要請する。私たちは世界の教会に呼びかける。長い間分かれ分かれになっている家族、コミュニティ、教会の回復のため、また北朝鮮で再び妨げも恐れもなくイエス・キリストの福音が大胆に伝え示され、朝鮮半島全体が主を知るために、神が扉を開いてくださるように祈ろう。
  2. 私たちはあらゆる場所のすべてのクリスチャンに呼びかける。戦争や対立の恐怖に直面する人々のために、とりなしをしよう。迫害下の教会のために祈ろう。世界中の諸民族と諸国の間の平和のために働こう。キリストの平和をつくる者として、福音に対する私たちの信仰と福音の告知の重要な証しとして、キリストの平和の模範を示し、平和の風土を促進するようなクリスチャンのコミュニティを、私たちは立て上げなければならない。このようにして、私たちは対立によって深く傷ついた世にあって、ともにキリストを伝え示すのである。

VII. テクノロジー:加速するイノベーションを見分け、管理する

テクノロジーは、つねに私たちとともにあった。だが、今日あらゆるテクノロジーが進歩する速度は前代未聞である。世の常であるように、人の潜在能力と人の行動におけるこのような急速な変化は、それが社会と地球に与える影響という点で、道徳的・倫理的懸念を引き起こす。現代の複数のイノベーションは、人とテクノロジーの融合、あるいは人がテクノロジーの支配に服す可能性がある没入環境の創造に役立つ。こうした潜在的可能性は、遺伝子工学、クローン作成、生命工学、精神アップロード、デジタルメディア、仮想現実、人工知能といった領域から生まれる。キリスト教世界観は、こうした技術の進歩に対する私たちの応答と、進歩の管理について、参考情報を提供する。教会が神から与えられた人の創造性とイノベーションの成果を、伝道と弟子づくりを加速させる方策も含めて受け入れ、また管理していく中で、台頭技術の道徳的・倫理的影響について、教会が見分けることができ、また明確な姿勢を持てるために、聖書の知恵は不可欠である。

技術的能力は、神のかたちにつくられた人間の創造性を反映する。

  1. 「テクノロジー」とは、人の能力や生産性の拡張を支援するツールを指すだけではなく、発明やイノベーションのための知識やプロセスをも指し、技術の進歩や使用によって形づくられる社会文化までも指す。技術革新は神のかたちの表現であると私たちは確言する。なぜなら、人の創造力は神の創造力を反映するからだ。神は人を技術的な存在として創造した。つまり、人の繁栄を促進し、神の被造物を大切にするために、人が世界のかたちを整えることができる存在として創造した。神のかたちを反映するものとして、テクノロジーは、創造主がすべての人に関与するようにと召しておられる仕事や使命と一体となっている。この意味で、科学技術活動は特定の問題の解決や、人間の限界の克服のためだけでなく、より重要なことは、他の人々と世界を大切にし、私たちの創造的能力を通して創造主に栄光を帰するようにという神の命令への服従である。

罪はテクノロジーの使用や開発に悪影響を与える。

  1. 罪は人間の活動の全側面に影響を与えると私たちは断言する。したがって、罪の影響はテクノロジーの使用を損なうだけでなく、場合によってはイノベーションそのものをも損なう。それゆえ、テクノロジーの開発や使用は、即座には明白にならないようなかたちで、人間の繁栄や自然界への配慮を妨げる場合があると私たちは認識する。この理由から、技術革新はしばしば、深刻で落ち着かない不安をかき立てたり、的はずれの依存や集中をもたらしたり、人の恐怖の有害な操作、偽りの安心感、人間性を奪うような発現につながったりする。罪の影響のゆえに、テクノロジーは創造主ではなく被造物を崇拝することによって、偶像的になることがよくある。(ローマ1:25)
  2. 最近のイノベーションの多くによって、テクノロジーは、私たちの生活、社会、教会において以前よりずっと目立つ存在になった。テクノロジーは私たちの没入環境になる能力を持っているので、私たちは神の中に「生き、動き、存在している」という事実を忘れがちである。あらゆるテクノロジーの開発と応用とは、価値によって動機付けられ、また形づくられるが、そうした価値の多くは、真実なこと、尊ぶべきこと、称賛に値することに意識的に心を留めなさいという聖書の教えに反している。(使徒17:28、ピリピ4:8)

クリスチャンはテクノロジーについて、預言的に批判をし、また関与するよう召されている。

  1. メディアテクノロジーは、人が容易に欺かれるのを助長してきたことを私たちは認識する。こうしたテクノロジーの使用にあたり、クリスチャンは必ずしも「隠し事」や「ずる賢い歩み」を捨てることをせず、自分の利益のために聴き手を欺いたり、福音のメッセージをゆがめたりするという誘惑に抵抗してこなかったという事実を、私たちは嘆く。そうではなく、クリスチャンは人々を第一とし、自分の人生における福音の力を証ししつつ、自分のストーリーを誠実に分かち合わなければならない。メディアや通信技術のこのような使用は、分かち合われている福音のまさにその中に見出される誠実性によって、下支えされることが必須である。(2コリント4:2)
  2. 多くのクリスチャン、特に若い世代は、ソーシャルメディアやデジタルメディアに依存し、そのようなテクノロジーを使うことに費やされる時間が極度に長いため、事実上メディアによって「弟子訓練」されていることを私たちは認識する。デジタル技術はしばしば、教会成長や伝道目的のために改良されてきたものの、弟子づくりのためのデジタル技術改良の努力は遅れを取ってきたことをも、私たちは認識する。そこで私たちはすべての教会とリーダーに対し、デジタル時代のテクノロジーを弟子づくりのために用いるよう呼びかける。デジタル空間における信仰深い存在感、接続されたデバイスを通じての信仰深い文脈化、デジタルリテラシーについての信仰深い教育、健全な使用習慣を形成するための信仰深いもてなしの実践を、私たちは要請する。

自然も人間の性質も、人の自由を制限することを許されるべきではないという考え方によって推進されているテクノロジーを、クリスチャンは見きわめなければならない。

  1. 私たちはクリスチャンに対し、遺伝子技術を注意深く見きわめるよう呼びかける。遺伝子技術は、物理的な人間と生命との構成要素そのものを作り変えて、人の能力を増大させることに基づいている。かかる技術は、その倫理的使用と長期的影響について、きわめて本質的な問いをもたらす。複雑な病状に対処するための、遺伝療法の潜在的可能性は膨大だが、この技術的応用には次のような重大な問いが伴う。私たちは遺伝子の生成物であるに過ぎなくなってしまうのか。遺伝され得る遺伝子の改変の影響は何だろうか。私たちの人間性のうち、どの程度が遺伝子の組合せに結びついているのか。仮にその組合せから離れることで自分を作り変えた場合、どんな影響があるだろうか。これらの問いの他に、神の主権に対する私たちの服従、遺伝子技術に対するアクセス、既存の差別意識を悪化させる潜在的可能性について、倫理的な問いも出てくる。
  2. 私たちはまた、人工知能(AI)技術を見きわめるようクリスチャンに呼びかける。AI技術は遺伝子技術とは別ではあるが、同様に重大なかたちで私たちに対峙する。私たちが明確に人間的だと考えるような仕方で論理的に考え、振る舞い、行動するように見えるデジタルシステムの開発は、人間の創造性と合理性の固有性について、問いをもたらす。AIは以下のようなその他の問いをもたらす。AIは人類の存在にとって、また世界全般の存在にとって、脅威となるだろうか。仕事場において、また人間の仕事にとって、AIはどんな影響を与えるだろうか。政府やその他の機関は、監視やセキュリティの分野でどのようにAIを使うだろうか。AIにおけるイノベーションが加速する中で、私たちはクリスチャン、特にこの業界で働くクリスチャンに対して、安全で公平で尊厳ある応用を促進することによって、創造主と人の被造物性を尊重するような、この技術の開発と使用の双方に関与するように要請する。

クリスチャンはテクノロジーを忠実に管理するよう召されている。

  1. 神の前でも他の人々に対しても、愛と正義と誠実さをもって、技術革新と技術使用を追い求めるようにと、私たちはすべてのクリスチャンに呼びかける。テクノロジーは人間が住み、遊び、関係を結び、働く環境を形づくり、クリスチャンが互いに交わり、祈り、聖書を読み、信仰と品性に成長し、神を礼拝し、福音を分かち合う仕方をも形づくることを、私たちは認識する。したがって、クリスチャンによる技術開発および技術使用は、新天新地で私たちを待ち構える将来に、私たちの目をさらにしっかりと据えて、隣り人と敵の幸福を追い求め、人の繁栄と尊厳を推進するものでなければならない。(ミカ6:8、ルカ10:25-37、創世記9:6、ヤコブ3:9、創世記1:31、黙示録21:1-8)
  2. 今日、教会共同体内でデジタル技術について協議され、デジタル技術が活用される中、既存の教会生活のあり方がデジタル技術によって形づくられ、また新たな教会のありかたがデジタル技術から生まれているのを見る。デジタル技術は一枚岩ではないことを認めた上で、教会は見分けの力を用いて、デジタル技術の使用においてイエス・キリストの福音がどう告知され、どう称賛されるかにつねに焦点を当てて、様々な技術がいつ、どのように、どこで採用されるべきかを判断しなければならない。そこで私たちはクリスチャンと諸教会に呼びかける。神の礼拝、分断の橋渡し、キリストを称賛する風土の醸成、クリスチャンの弟子づくりの働きのために、デジタル技術を探求し、活用しよう。
  3. 最後に、私たちは教会の伝道意欲を称賛する。この意欲のおかげで技術の活用はますます進み、福音を分かち合うためのかつてないほどの機会が生まれた。テクノロジーは、それまで到達不可能だった世界の多くの地域へと福音の到達範囲を拡大し、聖書翻訳作業を加速させ、世界中で神の民の運動やミニストリーを促進してきたが、私たちはそのことを喜ぶ。技術にますます頼るようになる世にあって、福音を動機とする信仰深いテクノロジー管理によって、新たな世代がキリストに従い、キリストを証しする上で支援されるよう私たちは祈る。[4]

結び

私たちは崇高で聖い目的をもって、第4回ローザンヌ世界宣教会議のために韓国インチョンに集まる。その目的とは、十字架につけられ、復活したすべての人の主であるイエスによって、私たちに託された宣教である。福音において、神はあらゆるところにいるすべての人に向かって、罪から立ち返り、罪の赦しをとおして新しい命という神の賜物を受け取るようにと呼びかけている。福音によって、神はご自分の教会を建て、キリストにあって神に対し、またお互いに対して和解させられた、すべての民族から成る一つの聖い民を形成するという、ご自分の目的を成就しておられる。福音によって、私たちは主イエスの弟子となり、彼の救いのご支配の下に生きる自由を喜ぶ。福音によって、私たちは弟子をつくり、キリストの命令に従うよう彼らに教える。これは私たちの召命であり、大義である。福音を追い求めつつ、私たちは喜んで、神が私たちに託してくださったもの、すなわち私たちの賜物、資源、エネルギー、命をお返しする。私たちは、自分の労苦によるすべての実は、神の恵みの成せる業だと、へりくだって告白する。

私たちは主に耳を傾ける。主は聖書をとおして私たちに語りかけ、聖霊の力によって十字架の道において主に従うようにと私たちを招いておられる。私たちは、キリストの死と復活という良い知らせでクライマックスを迎える物語のうちに、私たちの人生を生きるように、そしてすべての人が主こそすべての人の主であることを知るように私たちの人生を差し出すようにという主の招きの声を聞く。その目標のために、私たちは主の権威あるみことばの忠実な解釈者となるようにと、主が呼びかける声を聞く。私たちは地域教会に今ひとたび新たに献身するようにという主の呼び声を聞く。地域教会は、キリストの教会、すなわちあらゆる場所や時代に生まれ、キリストへの信仰によって形づくられる、諸民族から成る一つの民の唯一の目に見える現れである。私たちは使徒的信仰に対する新旧様々な挑戦を前にして、忠実であれという神の呼び声を聞く。使徒的信仰は、自らの人生をもってそれが真理であるという証しを立てた男女によって、世代から世代へと私たちに受け継がれてきた。キリストに従うために、私たちは過去の証し人の足跡に従う。

私たちは、キリストが私たちを愛されたように愛し、利己的な野望を棄て、福音のパートナーシップの中で働き、聖霊と、キリストのみこころと生き方と言葉の知識とに、祈り心をもって依り頼むことに日々成長するという、刷新された決意をもって、世界のすみずみにある私たちの奉仕の場へと帰って行く。世の唯一の希望であり光であるお方のすばらしさを、私たちが一致した声で伝えることができるように。罪人のためにご自分を与えたお方の聖さと愛とを、私たちが一致した心で示すことができるように。私たち教会が、キリストをともに伝え示すことができるように!

「神よ、私たちをお助けください。父と子と聖霊の御名によって祈ります。」

文末注

  1. 参照:Lausanne Occasional Paper 74, “‘Do You Understand What You Are Reading?’ Toward a Faithful Evangelical Hermeneutic of Scripture,” https://lausanne.org/occasional-paper/do-you-understand-what-you-are-reading-toward-a-faithful-evangelical-hermeneutic-of-scripture.
  2. 参照:Lausanne Occasional Paper 77, “A Theology of the Human Person,” https://lausanne.org/occasional-paper/a-theology-of-the-human-person.
  3. 参照:Lausanne Occasional Paper 75, “The Formation of Disciples for Mission and the Formation of Disciples as Mission,” https://lausanne.org/occasional-paper/the-formation-of-disciples-for-mission-and-the-formation-of-disciples-as-mission.
  4. 参照:Lausanne Occasional Paper 76, “Christian Faith and Technology,” https://lausanne.org/occasional-paper/christian-faith-and-technology.
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