近年のマレーシアでの出来事は、信教の自由と、基本的自由権に関する議論をこれまでにないほど高めています。昨年の初め、聖書協会に突然の襲撃があり、アラー/アルキタヴ(アラーという単語を含むマレー語聖書)問題が関心の中心になりました。その後、アラーという単語はキリスト教信仰に必要不可欠ではないという控訴裁判所の見解が、カトリック・ヘラルド誌に関する2013年10月の判例において出されました。連邦裁判所は、昨年、カトリック教会の控訴を退ける決定を下しましたが、信教の自由についての問いには答えを与えませんでした。この決定にともない、この国のクリスチャンたちは、イスラム教との混同をもたらしたり、イスラム教徒を刺激したりしないような方法で自分たちの信仰を実践することを求められています。そうすることで、イスラム教以外の宗教とその実践は、イスラム教の領域から離れた個人の領域へと追いやろうとされています。この事が意味するのは、今や非イスラムの信仰は降格されてしまい、公的な生活においてはもはや重要な役割を果たすことはないということです。マレーシアでは、他のアジアの国々と同様に、宗教は、共同体と国家の構築に大きな役割を持っています。そのため、全ての宗教は、マレーシアは多民族・多宗教国家だということを踏まえた上で、社会の公益について、意見をもつべきです。控訴裁判所は、アラーという語がキリスト教に必要不可欠ではないと言っただけでなく、さらに進んで、そのような宗教の実践は、基本的人権ではなく、特権であるとまで述べています。これは、宗教にとっての必要不可欠な部分のみが、憲法のもとで守られるのだということを意味しています。どのような宗教のグループにとっても、自由に生き、共同体の善のために生きた証をしていくためには、信教の自由が全ての信教に広げられ、全ての宗教の実践が保護されなければなりません。それに満たなければ、最終的には社会の緊張と敵対心が強まることは決して避けられません。信教の自由は、上に寄って与えられた基本的な人の自由権であり、決して他の宗教のグループや政府の権威から与えられる特権であると解釈されるべきではありません。この真理は根本的なもので、クリスチャンはこの真理を常に掲げなければなりません。私たちの国のこの分岐点にあって、教会は自らを強めなければなりません。多民族社会と民主的な生活の方法の追求は、国家構築の上での喫緊の優先度を持っています。このため、クリスチャンと全ての市民が同じように、全く別のシナリオに基づく国家を追求する必要があります。宗教的な主張が宗教担当の官僚によってなされるのではなく、政体が法と民主的原則の統治の下に支配されるようなシナリオです。福音派の教会は、これまで、狭い世界観にもとづいて、公的な領域の社会・政治・宗教的問題に関わることは教会の使命ではないとして、このような事業を無視してきました。結果として、優先順位と焦点は、伝道、教会の成長、社会的共同体への配慮に置かれる事が多く、より全体的で安定した社会的・公的な神学の構築よりも他の文化への宣教が優先されてきました。これは、マレーシアの教会にとって確かに事実ですが、感謝なことには、現在の出来事のおかげで、教会は危険に対して目を覚まそうとしています。この経験は、他のイスラム教徒が支配的な国々において、制裁の可能性があるなかで、どのようにして戦略的に、法における正義と平等を追求していくかの積極的な例となりえるでしょう。ひとつの公同の教会、そしてキリストのひとつのからだとして、世界教会は、イスラム教徒が支配的な国々のクリスチャンたちのために、彼らがこうして信教の自由に関する重大な課題における多民族民主主義の追求を忠実に続けていくことができるように、情報に基づいて祈りを捧げていくことが確かにできるでしょう。世界教会は、祈りを超えて、イスラム教徒が支配的な国々に資源やアイデアを分かち合っていくこともできるでしょう。どんな国であっても、神の国に沿うものに決めていくことには、力を合わせることと、継続的で戦略的な協力関係が要求されます。