ヒンズー教は世界中で9億人以上の信者を有し、キリスト教、イスラム教に次いで、世界で3番目に多くの信者を持つ宗教である。その多数を占める8億2,700万人以上がインドに暮らしている。
福音はこれまで、社会から無視されてきたようなコミュニティの福祉や全体的な発展に貢献し、教育と保健衛生を普及させ、ヒンズー教徒の中にあってイエス・キリストを礼拝するコミュニティを育んできた。しかし、福音伝道の担い手は、多くの地域でそのような形で福音を具体化することができず、それぞれのコミュニティが自ら福音の意味を忠実に探ってきた。
今日、我々がヒンズー教社会のコミュニティに福音を届けようとするとき、福音とそれを包む西欧文化とを分離することができない。従って、異文化という包装紙をまとった福音は失われるか、損なわれるか、あるいは盗まれてしまうため、我々が届けようとするものは、結局は届かないのである。結果的に我々が実際届けているものは全て、包装紙なのである。
不幸にも、西欧的なシンボルや儀式の方が我々にとって、より親しみがある。我々は、それらを聖書的な戒めとして捉えて放さず、ヒンズー教文化における信仰のあり方に対してはあまり寛容ではない。ヒンズー教社会では、非常に絆の強い家族や社会が基盤となっている。度々、若者は、家族や社会の慣習は悪いことで、避けるべきものだと教えられ、家族か信仰の二者択一の選択を迫られてきた。彼らの人生は、キリストへの信仰ではなく、文化的な問題によって苦しめられている。家族から断絶される恐れは、ヒンズー教文化を背景に持つ者がキリストに従うことを妨げる一つの要因である。
真実で、内的、霊的な生まれ変わりではなく、文化的な面での変化を強調することによって、福音の本質が損なわれている。我々は、神の深遠な意思や、哲学的、神学的な基礎と共に、文化で包まれた福音を届けてきた。そして、古くから続く文明社会が、そのアイデンティティや文化、価値を捨てて、我々の文化で包まれたパッケージを取り入れるように期待してきたのである。我々は、勇気を持って西欧文化で包まれた福音というパッケージの紐を解き、それが吟味され、他の文化に取り入れられたり、受け入れられ、あるいは拒絶されるような社会に対しても福音を届けながら、自分たちの低くする必要がある。
我々が祈りつつ、この恵みを彼らに拡げるとき、福音もまた、想像を超えた類まれな方法で、彼ら自身や彼らの文化、コミュニティを探り、生まれ変えさせることができることを我々は確信するだろう。無条件に受け入れ、真の配慮を示し、そして裁くような態度を取らない、というような深い人間関係を築くとき、人々は福音に対してより強い関心を抱くようになるのである。
前に進むための方法は、対話を持つことである。対話によって我々は相手を傾聴し、相手から学び、謙遜を身につけ、相手の必要を満たすことができる。そして、そこから我々の生き方や言葉といったものが、ヒンズー教社会に生きる我々の友人の心に留まるようになるのである。御霊が我々を十分な理解に導いてくださるときには驚きがあることが期待されるので、対話や宣教に関わっていくことは冒険であると言える。福音の美しさとは、我々が聖霊の導きに従うとき、それぞれの状況において、新しく表れるのである。
ヒンズー教社会の驚くべき特徴は、ほとんどの人々が深く神を信じ、神との関係を大事にし、神を知ろうとし、神を喜ばせようとし、そして神の助けを得ようとすることである。神に従う者としての我々が宣教の働きで過ちを犯したのにもかかわらず、神はヒンズー教社会に福音を届けようと関わっておられる。我々が神に主導権をお返しし、自分を低くし、ぬるま湯から抜け出し、そして、神によって正され、教えられ、へりくだる者に変えられるとき、神は、熟練した機織工のように、美しいデザインを織り上げることができるのである。