クリスチャン信仰は8 世紀ごろに中国に到達したと言われていますが、中国文化では外国的あるいは西洋の宗教として見られています。 時に中国で福音が宣べ伝えられることを文化の乗っ取りという人もいます。今日、儒教は中国文化のイデオロジーの形ではありませんが、世界や文化、社会生活の見解への影響が大きく残り、歴史的重要さがあるため否定しがたいものです。 例えば、学業の価値や孝行は孔子の生活のあり方の教えにたどることができます。儒教の実用主義は特に社会的側面の人間の存在を提言します。 儒教についていくつかの肩書き、人間主義から複雑な摂生の習慣行為が与えられていますが、儒教とは自分たち自身や社会を自らの努力と、自己修養を通して良くすることです。 中国文化においてのクリスチャン信仰の不評の歴史をみたとき、一つの説得力ある福音を伝える方法は彼らの熱望や価値に受け入れられていること、特に儒教のイデオロジーによっての人間の栄に向けて伝えていくことです。人間の栄への切望とモラルへの修養の2つが大いに中国文化へのクリスチャン信仰の適切さを表します。クリスチャンの罪の元と堕落に対する教理は中国文化では異質で、時に不快と思われています。孔子の自己修養の教えは、私たちが希望する人間の栄をもたらすことはできていません。人間の栄に対する熱望は自分たちで得ることはできないかもしれませんが、自分自身の力で得る必要はありません。希望はキリストにおいて私たちに与えられています。 私たちが福音を見つめていく中、それが人間の栄であることもみられます。「よい知らせ」は神様が御子を罪によって破壊されたシャローム、平安を回復するために送ったことをいいます。シャロームは聖書で言われているように、平安だけでなく、全世界の栄も具体化しています。 孔子の人間の栄の形はイエスが来て回復したシャロームによく反映しています。 孔子の人間の目的に関する予知が正しくある中、孔子は人間を完璧にする人間が持つ力に楽観的でした。イエス、御子が初めて私たちの罪の贖いとなってくださり、それにより、私たちがイエスを受け入れたとき救われます。イエスは私たちが義と汚れなく生きるように聖霊を助けとして送ってくださります。 短く言えば、中国文化への福音は、罪からの救い、私たちの生活の力への勝利であり、これらの結果により栄とシャロームへの道へ導かれるということです。 自己努力の代わりに、キリストがすでにその道への終わりを与えてくださっています。それはイエスを信じることによって得ることができます。福音の話がこのように伝えられていれば、中国文化が抱える問題に異国的解決方法としてみられてしまうことを避けられるでしょう。むしろ、孔子の人間性のアイデアに現実的な解決策として調和しています。