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アジアの仏教徒へのキリスト教の宣教は、かねてから、とても難しいとされてきました。これは、明らかな衝突のためというよりは、福音に対する無関心や誤った理解によるもの、あるいは福音が与えられる方法によるものです。仏教徒たちへのクリスチャンの証に関して、宣教師たちは長年にわたる物語を語り、多くの祈りが捧げられてきましたが、目に見える改宗者の数としては、その実りはわずかです。ただしその中には、中国とモンゴルでの驚異的な教会の成長など多くの例外があります。
仏教は多くの挑戦を投げかけていますが、クリスチャンが仏教徒にアプローチするには多くの方法があります。クリスチャンは、仏教徒について学ぶだけではなく、実際に仏教徒と話さなければなりません。
クリスチャンが仏教徒と関わろうとする時、誰もがあまりの違いに呆然とする経験をします。この問題は複合的で、世界観の前提にある根本的な違いにもとづくものです。仏教徒にとっては、人間の根本的な問題は 苦しみであり、その解決策は悟りと輪廻からの開放です。クリスチャンにとっては、人間の根本的な問題は、罪であると明言され、その解決策はキリストによる救いと自由です。
私は、敬意をもった会話によってアプローチすることをお勧めします。その際、意味を明確にするために注意深く耳を傾けることを心がける一方、違いについて弁解する必要はありません。実践、教理・神学、権威、人間はどうあるべきか、霊的な力、といったテーマについて話すことで、福音の実を結ぶことができるかもしれません。
ある人々は、仏教にはキリスト教と共通のものがあると主張します。その例として、天国・パラダイスと仏教の浄土や、あわれみや平和といった考え―これらはどちらもダライ・ラマによって繰り返し解説されるものです―が取り上げられます。しかし、この主張は表面的です。浄土というパラダイスは、それ自体が最終的な報いなのではなく、単に達磨(ブッダの教え)を実践するのにより良い場所であり、人が悟りを達成する可能性が高い場所です。ダライ・ラマは、あわれみ、平和、調和などの英語の語を、かなり異なった意味をもつチベット語を翻訳する際に使います。
仏教から改宗したクリスチャンの中には、イエス・キリストのことを、他の人々を業の束縛から自由にするために自分の命を犠牲にし、人々を苦しみ(輪廻)から神との完全な関係の中に救いだした究極の菩薩だという概念で捉えてしまっている人もいます。
仏教徒キリスト教の間の共通性が表面的なものだとしたら、仏教徒への宣教に携わるクリスチャンは次のことも頭に入れておく必要があります。それは、今日の他の宗教と同様、仏教は、世界的なダイナミクスに圧迫されて、商品化、原理主義、政治化の影響を受けやすいということです。スリランカとタイはその良い例です。
いくつかの福音派宣教団体が、仏教徒への宣教に高い優先度をおいています。また、アジアの仏教徒への宣教について、意見交換をし戦略を練っている学者・実践家間のいくつかのネットワークが存在します。毎年1月にタイのチェンマイで行われるカンファレンスでは、クリスチャンが集まり、仏教徒への宣教を考え、最善の実践をわかちあいます。2012年には、セミナーとワークショップがバンコクで開かれ、アジアの15の神学校・クリスチャン大学の学部長たちが集まり、仏教徒への宣教への関わりという観点から大学のカリキュラムの見直しを行いました。仏教徒への宣教についてさらに知りたい読者は、著者( h.kemp@xnet.co.nz)に連絡をとってください。