Global Analysis

「Faith and Work」運動の死

ムーブメントの始まりと終わりに対する個人的考察


Eric Quan 9月 2014

どのような言葉を用いられようとも、神は「Faith and Work」運動を始めるために、世界中で何らかのことを行われている。ある人はこの運動のことを、「Faith and Work」という組織自体のことを指して呼ぶが、ある人は「Business as Mission」、「Kingdom Entrepreneurship」、「Missional Business」、あるいは「Gospel-centered Ventures」といった組織のことを指して呼ぶ。

これまで「Faith and Work」運動が実現されることはなかった、あるいは、成功した例がなかった、という訳ではないが、個々の独立した活動としてではなくて、グローバルな運動としてスタート地点に立ったように感じられるのである。

これは十分な裏づけがある結論ではなく、むしろ私の個人的な推測であるが、少なくとも西欧では、この「Faith and Work」運動は、ここ数十年間に見られた、より「身近」で「求道者に優しい」キリスト教に対する幅広い宣教団体運動の反応と並行しているように思われる。

キリストの弟子をつくること、そして、神の愛を隣人と分かち合うという核心的な目的、それは私たちに与えられたものであるが、その目的を通して究極的には神に栄光が帰されるものであるので、信仰と行いとは、まさに大宣教命令を全うするものである。それ故、とても重要なのである。

シリコン・バレーでは、アップル社がiPadによって持続的な成功を収めるまでは、10年以上もの間、手持ちサイズの機器やタブレット端末の開発において様々な失敗があった。「Faith and Work」運動ならこの類の失敗を避けることができる、という根拠はどこにも見当たらない。神は私たちが失敗しないと約束されたのではない;神の約束は、私たちがそれを耐えることができるということである(第一コリント10:13)。

現在、「Faith and Work」運動には多くの断片化した活動がある。シリコン・バレーで見られたように、私たちはすべての人(言語、部族、国家)を組み入れた生態系をつくり上げる必要があるのである。

しかし、いかなるムーブメントもいずれ最終的には後世に継承されるので、いつまでもムーブメントであり続けようとすることは避けなければならない。イエスはムーブメントを起こされようとして使徒を送り出し、その後、それは世界の教会を開拓することに至った。長期的には、「Gospel-centered Ventures」、「BAM」、そして「Faith and Work」といったものがなくなっていくことを私は期待している。なぜなら、私たちの信仰に結びついた行いは、自然と私たちの行動原理とアイデンティティを形成するからである。

「Faith and Work」運動は、私たちのミニストリーと弟子訓練の方法を変えるべきである。礼拝堂に集う会衆は、異なるやり方で奉仕をしたがるようになるだろう。また、宣教師たちは、異なる方法で宣教地に行きたがるようになるだろう。しかし、おそらく最も重要な変化は、私たちの組織の意識が、より神の御国に向けられることである。生態系をつくり上げるためには、私たちは共に仕えなければならない。最終的にムーブメントが後世に引き継がれるときには、私たちは障壁を打ち破り、全ての者とコミュニケーションを取り合って協働し始めなければならない。

私たちは、忠実さを実践しなければならない。私たちは一日で起きている時間の半分以上を仕事に費やしている。このことは、私たちがそこでキリストの弟子をつくらなければ、どこでそれがなされるのか?という質問を投げかけている。私たちが神の国を第一として前進していくためには、職業的、経済的、そして個人的な犠牲もまた必要となるだろう。さらに、真の「Faith and Work」運動は愛なくしては存在し得ない。従って、私たちが何かをするためだけではなく、より重要なことは、神によって私たちが変えられるために、私たちは神の愛の深さに気づき、受け入れなければならないのである。

そこで、このムーブメントを共に始めようではないか…そして、いずれはそれを終わらせよう。

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